落合聰三郎 あゆみ
児童・青少年とともにひらいたみち 演劇教育・児童演劇でのおもな活動 | 国際的な活動 | 社会の動き | |
1910/01/01 | 東京市本所区茅場町(現墨田区江東橋)の木材商の三男 | ||
として生まれる | |||
1922/01/01 | 東京市茅場尋常小学校卒業 | ||
1923/01/01 | 関東大震災 | ||
1927/01/01 | 東京府立第三中学校(現両国高校)卒業 | ||
1928/01/01 | 東京府青山師範学校本科第二部卒業 | ||
1929/01/01 | 東京府青山師施学校専攻科卒業 | ||
東京府荏原郡第四荏原尋常小学校(現太子堂小学校)に勤務 | |||
斎田喬先生を知り、演劇教育をはじめる | |||
以後三河台小、麻布小、赤羽小、本村小を歴任 | |||
1931/01/01 | 満州事変おこる | ||
1932/01/01 | 青年教師米谷義郎、加藤光らと学校劇研究会を創り「学校 | ||
劇」(月刊)を発行、学校劇の講習会、発表会などにより | |||
学校劇運動会を展開する | |||
1934/01/01 | 日本児童劇協会の結成に協力参加、後に理事となる | ||
1937/01/01 | 日本学校劇連盟を結成、学校劇運動を拡大する | 日中戦争始まる | |
1939/01/01 | 学校劇研究会及び日本学校劇連盟を発展的に解消し、 | ||
美術・音楽・舞踊・映画・文学等の児童文化人を糾合して | |||
日本少年文化研究所を設立する | |||
1941/01/01 | 太平洋職争に突入 | ||
1942/01/01 | 日本少国民文化協会演劇部幹事となる | ||
1945/01/01 | 日本降伏、第二次世界大戦おわる | ||
1946/01/01 | 学校劇研究会再建、金沢嘉市らと東京児童文化連盟結成、 | ||
教師を中心とした人形劇団胡桃座結成 | |||
1947/01/01 | 占領軍の検閲の下、NHK学校放送社会科理科の台本執筆 | ||
1948/01/01 | 東京児童文化連盟と毎日新聞社提携の「毎日こども会」発 | ||
足、3年間にわたり徳川夢声、山本安英 滝沢修らの協力を | |||
得て、毎日曜日開催。児童劇作家協会(現日本児童演劇協 | |||
会)の設立に協力し常任委員となる | |||
1949/01/01 | 第二次日本学校劇連盟(現日本演劇教育連盟)設立、初代理 | ||
事長となる。芝児童館で第一回全国学校劇研究協議会開催 | |||
1951/01/01 | 第三回全国学校劇研究協議会を勤務校麻布小学校で開催、 | ||
参加者550名に及び実質的な全国大会となる | |||
1956/01/01 | 勤務校麻布小学校で、よびかけ形式による新しい卒業式の公 | ||
開研究会を数年にわたって開催、全国的に広がる契機となる | |||
1956/01/01 | 都教組教研集会講師(芸術教育−演劇教育)となる | ||
1958/01/01 | 主宰する少年戯曲の会の月例研究及び合宿、脚本集を21 | ||
号まで発行 | |||
1960/01/01 | 日本教育テレビ(現朝日放送)の学校放送台本の執筆及び | ||
番組編成に参画 | |||
1964/01/01 | 国際児童演劇会議に日本派遭団団長として出席(ロンドン) | ||
西ドイツ、フランス、スイス.イタリー、ギリシャの演劇 | |||
教育を視察、児童・青少年演劇国際交流の窓口となる | |||
1967/01/01 | 「少年演劇センター」を設立、「季刊少年演劇」を発行、主と | ||
して児童演劇の国際交流に力を入れる | |||
1968/01/01 | クリエイティブ・ドラマ講習会を1年間にわたって開催する | 第二回国際児童青少年演劇会議出席(ハーグ) | |
1970/01/01 | 氷川小で退職。以後84年(昭和59)まで、横浜女子専門 | オランダ、イギリスの演劇教育を視察 | |
学校、市邨短大、東京都足立高等保母学院、大田高等保母 | |||
学院、近畿大学豊岡女子短大、玉川大学等の識師を歴任 | |||
1972/01/01 | 第四回国際児童青少年演劇会議出席(モントリオール及び | ||
オルバニー) | |||
ドミニカ、メキシコの児童演劇を視察 | |||
1975/01/01 | 「ヨーロッパ児童劇の旅」を5回企画実施し、日本国内に | 第五回国際児童背少年演劇会議出席(東ベルリン) | |
情報を提供する | そのあと、チェコスロバキア、オーストリー、ハンガリー、 | ||
ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、イタリーの演 | |||
劇教育と児童演劇を視察 | |||
ハンブルグ国際児童演劇祭に劇団風の子の出演をあっせん | |||
する | |||
1976/01/01 | 東京家政大学教授、児童演劇の講座 | ||
〜 | を創設、四年制の大学で児童演劇の講座は日本で初めて | ||
1982(昭和57)年 | である | ||
1977/01/01 | ルーマニア、プロイエシュティ劇場の「バカラの冒険」の | ||
日本上演をあっせんする | |||
1978/01/01 | 第六回国際児童青少年演劇会議出席(マドリッド) | ||
ユーゴスラビア児童演劇祭に出席(シベニック) | |||
1979/01/01 | ウェールズ国際児童演劇祭出席(カーディフ) | ||
第一回アジア子供劇場国際ワークショップ出席(崎玉県嵐山) | |||
1980/01/01 | 居住する浜田山地域で「子どもを豊かに育てる演劇セミ | 中国演劇視察 | |
ナー」、「親と子の劇あそびセミナー」開催 | |||
1981/01/01 | 第七回国際児童青少年演劇会議出席(リヨン) | ||
1983/01/01 | 第一回アジア子供劇場国際ワークショップ出席(マニラ) | ||
1984/01/01 | (社)日本児童演劇協会「劇あそび勉強会」を開始 | 第一回韓国児童芸術祭典出席(ソウル) | |
世界児童演劇祭、演劇シンポジウム出席(ニューオーリンズ) | |||
ブラジルの児童演劇視察 | |||
第八回国際児童青少年演劇会演出席(モスクワ) | |||
1985/01/01 | 浜田山地域の演劇活動をまとめた「浜田山規子演劇フエ | カナダ児童演劇祭出席(バンクーバー、エドモントン) | |
スティバル」を提唱、実施する | |||
1986/01/01 | 西ドイツ、ベルギー、イギリスの児童演劇視察 | ||
1987/01/01 | 第九回国際児童青少年演劇会議出席(アデレード) | ||
1988/01/01 | 第一回アジア児童青少年演劇会議出席〈小豆烏) | ||
1989(平成1)年 | 第二回ペルー国際児童演劇祭出席(リマ) | ||
89アジア児童青少年演劇国際シンポジウム出席、アジア | |||
の12ヵ国が参加(甲府) | |||
1990/01/01 | (社)日本児童演劇協会に2億円の浄財を寄付、「落合聰三郎 | 第十回国際児童青少年演劇会議出席(ストックホルム) | |
児童青少年演劇基金」を段立 | |||
1991/01/01 | 第一回の「落合聰三郎児童青少年演劇基金」助成開始 | 日本海周辺諸国児童青少年演劇会議出席(両津) | |
1992/01/01 | 少年演劇センター主催による「劇的活動をいかした研究 | ||
授業」を開始 | |||
1995/01/01 | 2月26日10時53分永眠(享年84歳) |